『サイエンス』(英語: Science)は、1880年に創刊され、現在アメリカ科学振興協会 (AAAS) によって発行されている学術雑誌である。
概説[編集]
世界で特に権威がある学術雑誌の一つとされている[1][2]。査読記事が掲載される雑誌であり、週刊で約13万部印刷されている。刊行は米国時間で毎週金曜日に行われる。読者数はオンライン版も合わせて100万人あまりと公表されている[3]。
同誌の主要項目は、オリジナルの学術論文[注 1]の発表および研究結果のレビューである。その他にも科学関連のニュースや意見の掲載を行うこともある。掲載される分野は、科学全般に渡っており、同様の学術雑誌であるネイチャーとの比較はよく行われる。
発行は、アメリカ科学振興協会が行っているが、論文の投稿に当たっては、協会の会員などである必要はなく、全世界から論文の投稿を受け付けている。掲載基準は厳しく、投稿論文の10%以下しか掲載されず、それらの投稿も査読を経る必要がある。そのために、同誌の権威は高く、学術界において特に引用される雑誌の一つとなっている。
2007年、ネイチャー誌と共にアストゥリアス皇太子賞のコミュニケーションおよびヒューマニズム部門を受賞。
編集部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.にあり、第二事務所がイギリスのケンブリッジにある。
また、ライフサイエンス分野の翻訳会社である株式会社アスカコーポレーションが日本における総合代理店業務を行っている[4]。
歴史[編集]
1880年にニューヨークのジャーナリスト、ジョン・マイケルズによって創刊された。当初、トーマス・エジソン、後にはグラハム・ベルの資金援助があった。1880年にグラハム・ベルは、人間の声の記録と再生についての研究を本誌に発表。しかし、十分な購読者を得られなかったために、1882年3月には一旦休刊した。1883年にサミュエル・H・スカッダー(Samuel Hubbard Scudder)により再開され、AAASを含むアメリカの著名な学会の会合について記事を掲載することである程度の成功を収めたが[5]、資金難により1894年には500ドルでジェームズ・キャッテルに売却された。
キャッテルは、1900年にアメリカ科学振興協会と協力関係を築き、サイエンスを協会の定期刊行物とすることに成功した[6]。20世紀初期においては、トーマス・ハント・モーガンの遺伝子の研究やアルバート・アインシュタインの重力レンズの研究、エドウィン・ハッブルの銀河に関する論文が掲載され、同誌の評価を高めた[7]。キャッテルは1944年に亡くなり、同誌の発行権はアメリカ科学振興協会に移った[8]。
キャッテルの死後は一貫した編集者がしばらく決まらなかったが、1956年にグラハム・デュシェーンが編集長に就任した。1962年から1984年までは、物理学者でネプツニウム発見でも知られるフィリップ・アベルソンが編集長を務めた。アベルソンは査読プロセスの効率を改善し、現在の出版方式を定着させた[9]。この間、アポロ計画に関連した論文やエイズの初期報告が掲載された[10]。
1985年から1995年までは、生化学者ダニエル・コシュランド(Daniel E. Koshland, Jr.)が編集長を務めた。1995年から2000年までは神経科学者フロイド・ブルーム(Floyd E. Bloom)が後を引き継いだ[10]。
2000年には生物学者のドナルド・ケネディ(Donald Kennedy)が編集長に就任。2008年3月には生化学者ブルース・アルバーツ(Bruce Alberts)が後を引き継いだ[11]。
2001年2月、ヒトゲノムのドラフト配列解読結果がネイチャー誌とほぼ同時に掲載された。サイエンス誌が掲載したのは Celera Genomics という企業の論文で、ネイチャー誌が掲載したのはヒトゲノム計画の論文だった。
尚、2006年6月2日号は「はやぶさ特集号(Special Issue: Hayabusa at Asteroid Itokawa)」と題され、小惑星イトカワの画像が表紙に用いられ、はやぶさのイトカワ探査関連の論文が一挙に7本掲載された。日本発の研究による同誌の特集はこれが初の出来事となった[12]。ちなみに、日本関連ではその後、2007年12月7日号が「ひので特集号」とされ、ひのでの撮影した映像が表紙を飾り、9本の論文が掲載された。
事件と批判